おはようございます。

井手口雅恵です。 

私を「まぁちゃん」と呼ぶ人たち。

腹を割り、本音で話せる大切な友。

共に泣き、共に笑い、共に喜ぶ。

正直に。正直に。

     

「感謝はするものじゃないよ」

そんな話をしたら

20代の若きよっしーは大きく頷き、その後、こんな質問をされました。

「まぁちゃんの思考は勉強になるなぁ。いつからそんな考え方になったの?」

     

そういわれてみれば、考えたこともない。

いつから??

私の独特な思考。それは、

私のクライアント様がいつの頃からか名付けた「雅恵イズム」と言われるマインド。

      

雅恵イズムの原型を自覚として持ったのは

ひどく体調が悪かった頃の、身体だけでなく心も病んでいた時代を抜け出すあたりではないかな??と思います。

      

身体と心はいつも共にあることを身をもって体験したからだと思います。

      

冷静に当時の状態を振り返ってみると

毎日、身体のどこかが具合悪くて

【明らかに健全ではなかった】

体調も、精神状態も、落ちるところまで落ちて、自分のドン底で這いつくばっていました。

当時の私は、苦しみから逃れるために命を絶つ方法があることすら知らないほどの無知でしたから

あの時を思えば(知らないで良いこともあるんだ)と思えると同時に

(生きていて良かったなぁ。)

今、命があるだけで、 

それだけでもう十分な気持ちになるわけです。

無知だった自分ありがとう!って(笑)。
     

極限の苦しみから逃れるために「死」は選択しなかったから、後は、生きるしかなく

落ちる先がないから這い上がる方法を選択した。

         

「ずっと不幸な自分」の役ばかり演じているのに飽きたのかもしれないです。

脇役ではもの足りず、主演女優を目指したくなったのかも知れませんね。

私の人生は、私が主役。

     

当時、自覚はなかったけれど、自分の中に何かしら一本の筋、いわゆる自分軸というものが通ったのかも知れません。

      

いつも最後にはこの話に戻るけれど、変化のきっかけは一人の男性との出会い。

それが、今の旦那さま。

22年も前のこと。

    

私が足のことを仕事にするまでのずっとずっと前。2004年頃のことです。

足に触れる勉強の初めては、彼の足で行っていました。

      

企業人として社会に欠かせないポジションに就きながら、会社という枠組みに身を置き

東京という大都会で守らねぱならないルールは、「忙しさ」という形で、次第に彼を追い込んで行きましたから

寝てる間だけでも、足に触れるだけなら、睡眠を妨げることなく、彼の身体にストレスをかけずに触れることができて

心地よく眠りにつくことができるんじゃないかなって思って始めました。

当時、専業主婦で、子どももいなくて暇でしたからね。

井手口雅恵が手で触れて行うセラピーを世界で一番たくさん受けている人です。

     

人様の身体へ触れさせて頂くとき

お相手のことを自分が「なんとかしよう」とすると、

その行為は、相手の方が、自分で背負うと決めた人生の荷物を背負うことになる。

だからセラピストによくある「邪気をもらう」などの現象が起こります。

私も、もれなく、しっかりもらっていました。

       
人様の身体に触れることで、自分もヘトヘトになっていきました。

たくさんの方の足をお借りし、練習を重ねる度に、ますます荷物が増え、死にそうになっていました。

       

        

「感謝しなさい」と人は言います。

「君は感謝が足りないよ」「もっと感謝しないと!」と、人は他人へアドバイスします。

       

今日のタイトル。

【感謝はするものじゃない】。

       

感謝は、

頭で考え、口を使い、言葉で行うことではない。

      

「感謝をしよう」

「感謝しなきゃ」と意識的に行うものではないし

ましてや、人から言われて、するものでもない。

       

感謝は、生まれるものです。

       

感謝は

自ずと

させられるもの。

      

     
感謝は

ふと、感じたとき

そこへ思いを馳せたとき

沸き起こるもの。

       

身体の中から溢れて溢れて

止まらなくなるもの。

    

      
だから、感謝はするものじゃない。

       
感謝は

それをせずにはいられなくなるものです。

         

人様の身体に触れることで、お相手の方は「ありがとう」と言ってくださいます。

       

感謝をされるのです。

     

相手の方が、私へ「ありがとう」と感謝を贈ってくださるのと同じ分だけ、私もお相手へ「ありがとう」と感謝を送る。

       

どんな人も、人は、存在そのものがパーフェクト。完璧です。

その身体を選び、その生き方を選び、自分が選択し、今、ここに存在する。

私が介在しなくても、その方は、パーフェクトな存在。

パーフェクトなお相手へ対し、お身体を触らせて頂く私は

お相手にとって、要らんこと、余計なお節介、大きなお世話をするのです。

       

      

おみ足を拝借させて頂き、ありがとうございます。

あなたが、あなたの力で、身体を変化させられたこの変化のタイミングに立ち会わせて頂き、ありがとうございます。

      

あなたの素晴らしい人生に、関わらせて頂き、心から感謝を申し上げます。

   

自然に、そのような言葉になります。

          

足を触ることで、既に完璧なお相手を

「私がやってあげる」「私がなんとかしよう」だった私は

人様から感謝されたくて

人様が選んだ人生へと、ズカズカと勝手に踏み込み

人様の人生の課題へ、勝手に取り組み、横着にもアドバイスなどして

人様の人生の上に、あぐらをかいているようなもの。

失礼極まりない。

どんだけ無礼を働いてるんだよ!という話になるわけです。

    

    

すべてのありがとうは

有り難いこと。

当たり前ではない、有り難いこと。

     

今、こうしている間にも

様々なありがとうが、止めどなく沸き起こり、有り難くて有り難くて

涙が溢れてきます。

        

    

「ねぇ、よっしー。

感謝ってね、するものじゃないよ。」

     

帰りの電車の中で私が言うと、よっしーは私の目をみて、

最高の笑顔を、贈ってくれました。

よっしー

つっちー

素晴らしい夜をありがとうございます!