「あぁ。
お父さんです。忙しかとやろ?」

いつも、こんな感じで始まる。
父からの電話。

今回ばかりは違っていた。

「あのさ…
どうも調子の悪かっさね…」

4月に交通事故に遭ったらしい。
その後は毎日病院へ通っているという。

信号停止中、後ろから追突され
左の首~肩、背中にかけ、むち打ち症。

『え??
これまで何度も電話で話したろ?
交通事故に遭ったとか
一言も言わんやったよね?』

(あ~そうか。なるほど。
それで。)

前日、
愛知にいる妹からLINEが着てた。
「姉ちゃーん。
今、お母さん、ウチに来とるよー」

私の長崎の実家では

74歳の父母と
39歳になる肢体不自由の弟が
3人で暮らしています。

母は3年前に
アルツハイマー型認知症と診断されました。

両親と電話で話すときはいつも
二人一緒にいるから
父は電話口で、母のことを話すことが出来ずにいた。

母の症状は確実に進行していて
近頃では
短期記憶がほとんど無く
さっき話したことを、又、
繰り返して話すといったことが続いている。

父に対しての攻撃性も強く出て
電話口での父の声からは
相当に参っている様子が感じ取れました。

「お母さん、留守にしとるけん電話した。
横におったら
話したかことのあっても話せんとさね。
何ば話よるとやろうか?って
オイの話に聞き耳立てとるけん。
『私のことば、ボケ扱いしてから!』って
そりゃもう電話切った後が
酷かとやもん。。」

会わなかった間
父はずっと電話口で
「大丈夫。大丈夫。
なーんも 心配せんちゃよか。」
と言ってた。

全く、大丈夫では、なかった。
私に心配をかけまいと
全てを自分で背負おうとしていた。

初めての事だった。
父が、私に対して、弱音を吐いた。

父は大工の棟梁でした。
柔道の師範で指導をしていました。
声が大きくて
曲がったことが嫌いで、厳格な父。

強い、父が。

* * * * *

5年ほど前
妹とわたしで父へ提案した事がある。
「ねぇ、お父さん。
あっくん(弟)の将来のこと、
お父さんが元気なうちに
動けるうちにどうしていくか決めようよ。
順番からいったら
両親は先にいなくなるのはわかっとるし
私たちも、長崎におらんとやし。」

そう切り出した途端に
父は、ひどく機嫌が悪くなった。

「毎日、考えん日は、なかぞ。

先のこと決めとって
その通りになったこと、今まであるか?

お前たちに頼らんでも
お父さんとお母さんで出来る限り
ちゃんとやるごとする。

お前たちに言われんでも、わかっとる。」

そう言い放った。

その後は二度と弟の話題に触れることはしなかった。

* * * * *

「姉ちゃーん
お母さん、今、ウチに来とるよー」

妹から届いたLINEは
父の体調が優れないことを心配した妹が
父の負担を少しでも減らそうとした
行動であることは直ぐに理解できた。

同時に
妹が知らせてきたのは
兄の緊急入院が決まったこと。

持病が悪化したらしい。

妹は喘息持ちですから
長崎へ帰省して
掃除が行き届いていない
ホコリまみれの家に泊まることは
危険だと父が判断し
家に寄ることを避けるようにしていた。

兄は、腎臓を煩い
仕事はこなしているが
ここ数年ずっと投薬中で
免疫力が下がり、入退院を繰り返している。

私には頼らないと言い放った父が
たまらず
私へ自ら電話をよこしたのだった。

父からの電話の後
私は軽くパニックに陥っていた。

少しの間
思考が停止していて
ようやく
事の重大さを、深刻さを、理解し

サロンにいた海老原へ、言った。

「えびちゃん。実家がピンチ…」

そう言葉にした途端に
涙が溢れてきて止まらなかった。

海老原へも、実家の現状は話したことがなかったから
これまでのいきさつと状況を伝えた。

彼女は直ぐにカレンダーを持ってきて

「社長。帰ってください。
ほら、見て。
この先、一週間のスケジュール
すべて変更がお願いできる方との予定です。
お父さん、助けを待っていますよ。

留守は私が守りますから。
安心して行ってきてください。

社長。大丈夫ですよ。
神様は、越えられない試練は
与えられませんから。」

社長。大丈夫ですよ。

今回も助けてくれた言葉。

これまで何度も
私のピンチの場面で登場し
助けてくれた海老原の魔法の言葉。

「大丈夫ですよ。」

信頼のもとに成り立つ安心は
揺らぐ私を繋ぎ留めてくれる。

顔が合わせられないスタッフへは
連絡網で知らせて

予定をリスケさせて頂いた
約束があった先方の
すべての皆様が
励ましの言葉をくださった。

有り難かったです。

頂いた言葉が、すべて
心の底から有り難かった。

自宅へ戻り、パートナーへ
「帰省してくるね」と話をする。

もちろん彼は、私の実家事情を把握しているし
冷静かつ的確なアドバイスをくれる。

今回もまた、同様でした。

「雅恵。
全然、緊急事態じゃなかろ?
全部、想定内やろ?
親が、老いていくのは
初めから決まっとるし
自分たちの状況が常に変わっていくことも
あっくんのことも
わかっとったことやろ?

雅恵が全部、決めんでよか。
兄弟で、家族で、みんなで話す日ば持てばよか。
実家の現状、把握してこんね。
親孝行だけしてこんね。

それと
分かっとるやろうけど
敢えて言うけど
『ほら!!見てみんね!
だけんあのとき言うたとに!!』
だけは、絶対に言うたらいけんよ。」

「うん、わかった」

最も信頼する人の『絶対』を受け
6/23~6/30
一週間をフリーにし長崎へ帰省した。

以前と状況が変わるであろうイメージは
長崎空港へ降り立った時点で
直ぐにリアルになりました。

前回まで、空港へ
到着口まで迎えに来てくれていた
両親の笑顔は、そこにはなかった。

「長崎に着いたよ。バスで行くけん」
父へ電話を入れ、一人で向かう。

(長崎へ今年帰ったのはお葬式で、
実家へは寄らなかったのです)

バスを乗り継ぎ、1年半ぶりに訪れた家は、
私の想像をはるかに越え

荒れ放題に、荒れていました。

* * * * *

私の生家は
父が子ども時代を過ごした家。
三菱造船所のドックを望む町にありました。

祖父母の新居だった広い大きな家は

祖父が亡くなったあと
維持ができず、朽果て、解体された。

今は残っていません。

弟が歩けない身体と判ったときに
思った。
「あぁ。またお母さんを取られた…」

弟の身体のことで、母は
多くを決断したのだと思います。

肢体不自由ですから
「健常者」とは区別され
暮らしの場を別けられました。

私たちが通った幼稚園へ
同じように受け入れて欲しいと
園長先生へお願いに行き

幼稚園へ通うのに
段々と体重が増えていく男の子を
バギーを抱えて
バス停から幼稚園までの階段を、
車道から自宅までの階段を、
毎日、おんぶでの生活。

直ぐに両親の肉体の限界を迎えました。

長崎での生活は「階段」が日常。

母は、40歳で
車の運転免許を取ることを決めた。

祖父母が暮らす父の生家を出て
車椅子用に作られたバリアフリーの
市営住宅への入居を決めた。

母はたぶん
嫁いで初めての
祖母への反抗だったのではないかな?と思う。

母は、祖母から
壮絶な嫁いびりをされていたことを
私は知っていたの。
夜中にトイレに起きたら
母はいつも、泣いていた。

決して愚痴をこぼす人ではなかったから。

日頃の祖母の言葉遣いで察した幼い私は
『お母さんは、私が守る。』
という正義感だけで生きていた気がする。

家があるのに
親を置いて
祖父も、父も、大工なのに
自分で建てた家ではなく
市営アパートで暮らすなんて
プライドの高い祖母が許すわけがありません。
きっと、相当に揉めたでしょう。
想像がつきます。

歩けないとわかった弟に祖母は
「ウチの家系にはこげん子はおらん。
どこの血やろうか」と言った。

それでも、両親は
弟の成長に合わせて住居を変える選択をした。

その住まいが
現在の実家があるところ。

私が帰省して泊まる場所。

* * * * *

実家に着いて
扉を開けた途端、鼻をつく異臭。

埃、カビ、ショウジョウバエ。
そして、ゴキブリ。

1階に設置される車椅子用の住居は
特に
カビと虫の問題が、避けられない。

冷蔵庫には
形がなくなり元がなんだったのか
判らないほど溶けてしまった野菜の残骸。
冷凍焼けした魚らしきもの。
開封された瓶詰めの調味料は
賞味期限2015年で切れていた。

それらは
前回、帰省したときから
母は料理をしていないことを物語っていた。

届けられた贈り物
素麺やら、タオルやら、海苔やら
たくさんのモノが至るところに溢れかえっている。

実家の現状を目の当たりにしたとき
同時に沸き起こった。

『日本中にこんな状態の家が
あと、どれだけあるのだろう?』

胸が苦しくなった。

両親は二人とも、昭和17年生まれ。

父は3才で被爆した。

原爆を搭載し
長崎上空へ飛んできた飛行機の音は
今も鮮明に記憶しているという。

逃げ込んだ防空壕で
オシッコがしたくなって外へ出たら
ギラギラと銀色に光る
飛行機の機体に
ただならぬ雰囲気を感じ
オシッコが止まってしまったと言っていた。

日本に最も『モノ』がない時代に
生まれ育った。

モノを大切に大切にしてきた人たち。

モノがない時代を
支えてくれた人たち。

私たち次世代に
モノを作って来てくれた人たちです。

環境は人を作る。
捨てられない現実は当然です。

捨てられないのは
仕方がないのです。

片付けと掃除のための帰省のつもりではいたけれど
頭を過ったのは

これ、一週間で終わる?

正直、一瞬、途方に暮れたけれど

怯みません。

これをやりに来たのだ。

逆境に強いのが私。
目の前の課題が多ければ多いほど、
燃えるのが私。

大雨警報まで出るほどに
雨が続くお天気で
どこまで洗濯が可能かはもう
お天道様へおまかせするとして

真っ先に私が取り組んだのは
両親の靴への3Dインソール装着。

母は、膝の痛みで
ますます歩けなくなっていた。

杖をつきながら
ようやく少し歩けるほどで、
痛みをかばうから
身体の歪みも出てきていて
認知症も進んでいるから
歩けなくなることは死活問題。

父は、仕事の影響もあり若い頃から、ずっと腰痛。
さらに、交通事故での
首から背中の張りと痛みに苦しんでいた。

また、二人揃って、高血圧で
上が130越え、下が80越え。
日々の血圧チェックが欠かせない。

普段履いている靴をチェックし
ゆるい靴の悪影響を説明し
ゆるい靴はすべて処分。

前回東京へ遊びに来てくれた際に
私が選んだ靴を日常用に

住まいの周辺は、雪駄と下駄。
父には雪駄(父は若い頃から雪駄と地下足袋でした)
母には、下駄。

この年代は
下駄の方が馴染みがありますから。

体操教室などで運動したりするのに
ファスナーで着脱できるスニーカーをそれぞれに。

インソールを作成
足に沿わせるように靴紐を締め
理由を説明しながら
「はい。出来たよ。立ってみて」

二人とも
「わあ!膝が楽になった!」
「おお!腰の楽かね!」
直ぐにカラダで実感。

父の曲がっていた背中はシャンと伸び
「むち打ちの痛みが楽」だと言った。

身体の仕組みを話しながら
どうして痛みが出るか
どう、痛みをなくしていくか
歩く必要性を伝え

母をそのまんま散歩に連れて行きました。

全くと言って良いほどに
母は歩いていなかった。
弟が生まれてからの移動はほとんど車でしたから。
祖母がなくなった後、
祖父の介護の場面でも忙しく車で移動をしていたから。

「下り坂になると、痛いね…」
そう言う母に
下り坂で痛みが出ている部分の
負担を減らす歩き方には
ふくらはぎや、身体の背面の
筋肉を使う必要があること

筋肉が使われると
膝の痛みが消える感覚を
身体を動かしながら実際の体験で伝える。

膝にサポーターを巻き
杖をつき
途中でストレッチをしながら
片道700mの道を二時間かけて
何とか歩ききりました。

自宅へ戻ってから
直ぐに血圧チェック。

「わぁ♪」

久しぶりに耳にした母の明るい声は

「ほら!見て!
116と62 って出たよ。下がったねぇ」

血圧は歩いて自分で下げる。
これが、人の身体です。

「お母さん、膝は?」

「うん、膝はマシになった。
少し痛いかな…だけど、足が軽いね。
歩くと、気持ちがいいね。
いっぱい汗かいて、スッキリするね。」

「お母さん、すごいよね。
お母さんの身体、偉いよね。
自分で歩いて、血圧下げたとよ。
膝の痛みをなくすために
筋肉はたくさん使わんばいけんと。
関節の動きをよくするために
歩かんばいけんと。
意味、わかるよね?
今日から、毎日、歩くけんね。

私がおる間に
私が東京に帰ってからも
お母さん一人で歩けるように
一週間で膝の痛み、とるけんね。
よか? 歩くよ?」

母は
「うん。分かった。歩きます。」
と言った。

それから一週間の長崎滞在中は

毎日、母とのお散歩。

大雨警報が出ていたのに
お散歩の時間になると、不思議と雨が止みました。

2時間かかっていたお散歩は
1時間半になり
1時間になり
最終日はたったの40分になった。

長崎を発つ前日の夜
母と、父の、骨盤調整。
股関節と骨盤の位置を最終調整。

父は言った。

「助けてくれてありがとうな。
お父さんの身体ば、こげん楽にしてれて、良い仕事しよるなぁ。
帰ってきてからずっと血圧の低かもん。
お母さんのごとまで、オイは歩いとらんとにね。
ほんと、ありがとうね。
なんもできんばってん応援しとるぞ。
精一杯、務めなさい。」

母は、片足立ちができるようになった。

姿勢が良くなった自分を鏡に映し
真っ直ぐに伸びた痛まない膝を見て

「雅恵さん。
どうも有難う御座います。
お世話になりました。
本当にありがとうね。」

そう言って、母は
私に、深々と、丁寧にお辞儀をした。

私は母の姿を見て
大切な事を思い出したのです。

「ありがとう」の言葉を教えてくれたのは
両親であることを。

* * * * *

実家に滞在中
父の配慮のない言葉に傷付き
それが引き金となって
攻撃性が出てくる母の様子を度々目にした。

お互いを想い合っているはずなのに
うまく意思疏通が出来ずに
苦しんでいる二人の姿を見て
悲しくて堪らなかった。

父は、美しい母に、
髪の長い母の美しさに
一目惚れをしたそうです。

昔、照れながら話してくれました。
「お母さんは、キレイかったとよ。
髪の長うしてね。
吉永小百合のごたったと。
この人と一緒になりたかね~って思うたと。
お父さんの一目惚れたい。
今もキレイかばってんね(笑)」

母は、私が子どもの頃
よく話してくれたのは
父と初めて会った日のこと。

知り合いの家にお邪魔していたら
「こんちは~!」と入ってきた
黒帯で縛った柔道着をひょいと肩に乗せた父の姿が
カッコ良かったとよく言っていました。

「建家(棟上げ)のとき
大工さんは屋根に昇るでしょう。
神様の上に立てるのは大工さんだけよ。
お父さんは偉い仕事、しとるとよ。
お父さん、すごいね。」

父の仕事を誇りに思っていることを話しながら
毎日神棚に榊を供えていました。

きっかけはお見合いだけど
好きになって、一緒になった二人は仲が良かったです。

両親が喧嘩している姿…
あれ?
そういえば、見たことがない。

仲の良い二人がいがみ合うようになったのは
まだ誰も、それに、気がつかなかった頃。

今から17年ほど前くらい。

祖母が亡くなったあと
一人での生活が危うくなった祖父を引き取り
母が祖父の介護を始めた頃。

愚痴一つ言ったことのない母が
自己主張をするようになった。

姑や小姑から受けた嫌がらせのあれこれや
自分がどれだけ耐えてきたかを
堪忍袋の緒が切れたかのように
つらつらと、ブツブツと、
愚痴るようになった。

そんな母を見て私は
「あぁ、お母さんもやっと、
自分の気持ちを外に出せるようになったなぁ。良かった」
くらいにしか感じていなかったけれど

思えばそれは、母の
ごくごく軽い認知症の初期症状だったのだ。

仲の良い二人が
好きあって一緒になった二人が
私が愛してやまない二人が
私の目の前でいがみ合っている姿に
黙っては居られなかった。

「お父さんはお母さんのこと大好きやったでしょ?
今も、大好きやろ?
なんでそげん、キツイ言い方すると?

大きい声は怖いって
怒鳴られてるみたいでイヤって、
お母さんいつも、言いよるたい。

孫に話すときはできるとに
どうしてお母さんには、優しい言葉がかけられんと?」

「お母さん、お父さんのこと、大好きやろ?
好きな人のこと、忘れたくないやろ?

お母さん自身が一番不安なのは、想像できるよ。
私がお母さんの立場やったら
怖くて堪らんと思うもん。
記憶がなくなっていく不安とか
耐えられんって思うもん。

ケアに行きたくないとか
ボケ扱いされるけん嫌とか
まだ74歳とに
80以上のご年配の方と同様に
年寄り扱いされて嫌っていうとも分かるよ。

けど、お父さんの負担ば減らしてあげるのも思いやりやろ?
優しさじゃないと?」

私が泣きじゃくりながら
訴える。

弟は横で、ずっとニコニコ笑ってる。

「あっくんは、偉いよね。
何を言われても、動じないもの。
高い高い魂の人やもんね。
お父さんとお母さんの仲介役で
お父さんに怒鳴られても
ストレスの捌け口にされても
何とも思っとらんもんね。
あっくんは、自分で手を挙げて
『私に不自由な身体をください』
って
『五体満足の健康体の有り難さを
伝える役目を私が担います』
って、生まれてきたとやもんね。
ねぇ、あっくん。」

弟は、黙って、ニコニコ聞いている。

そう話しているうちに
ボンヤリしていた母の顔つきが
目付きがしっかりしてくる。

明らかに発する言葉が変化する。

「お父さん。
私ね、お父さんがそんなツラいって知らんやったよ。
いつでも、何でも、自分で決めてしまうたい。
自分で決めてしまわずに、私にも言って。
なんでも、話、して欲しい。
私だって、まだ、話してもらったら分かるとよ。
まだ、理解できるとよ」

このときの母の言葉は
認知症の母ではなかった。

お料理が得意で
台所に立つ母の横に
お風呂の椅子を持ってきて
横に並んで見ているのが大好きでした。

キレイ好きで
お掃除が大好きで
私たちが学校へ行っている間に
家中の家具の配置を変えたり
しょっちゅう模様替えをしていた。

母が作り出す料理が
部屋をくるくる変えていく
母の手が
魔法みたいに思えた。

私が大好きな母でした。
私が恋い焦がれていた母でした。

「ねぇ、お母さん。
楽しいことだけ、選べは良かよ。
楽しくなかったケアには行かんで良いよ。
楽しいところば、探せばいい。
行きたくなるところに行けばいい。
ストレスないし、穏やかに過ごせるけんね。
嫌なことは、せんでいいけん。
お母さんはさ、何しよるときが一番楽しいと?」

「そうね~
楽しいのはね
ご飯作るときが一番楽しい。
今日は、何、作ろうかな?
何作ったら、みんなが美味しいって言ってくれるかなー?って。
美味しいって食べてくれたときが
一番嬉しいね。」

「うん。分かった。
じゃあできるだけ、お魚買いに行こうね。
明日、鰯の天ぷらが食べたい。
作ってくれる?」

「うん。良かよ。
明日は、黒潮市場に、お魚買いに行こうか。
お母さんが鰯ば、捌こうか。
お父さん、明日運転して連れていってくれる?」

母は認知症を診断された3年前から
車の運転は自ら辞めていた。

帰省する度に
「何が食べたい?」と
食べきれないほどの料理を拵えてくれた母は
このときはもう
料理らしい料理ができなくなっていた。

亭主関白の極みのような家で
誰よりも早く気がつき
気働きできていた母は
自発的な行動が、ほとんど出来なくなっていた。

父は言う。
「料理はできんけど
魚ばさばくとだけは、できると。
だけん、お刺身は食べられる。
鰯の天ぷらは、できるとよ。
お母さんに天ぷら美味しかもんね。
鰯の天ぷら食べられてね、
俺は幸せばい。」

紹介してもらったデイケアが
よほど気に入らなかったのか

ケアには絶対行きたくない
面白くなかったもん
みんなが黙ーーって
何にも喋らず
お茶も飲んで良いのか判らず放置されて…
って、母は
一日に何度も何度も言っていた。

どうやら父は
母と一緒に見学などは行っていなかった様子。

父には『相手へ寄り添う』ところが足りないこと。
言葉が足りないことを伝えました。

母の記憶はどんどん危うくなってきているけれど
「想い」は、記憶がなくなっても
なくならないんだよ。

そう。
母の記憶が完全になくなっても

私の顔が判別できなくなっても

娘だと認識できなくなったとしても

愛を伝えることはできるのだ。
互いに肉体が存在する限り。

お互いに、生きている限りはね。

時々、ふと、思う。

母は、記憶がなくなった方が
生きるのが楽かもしれない。

祖父の介護。
姑や小姑からいじめらた記憶。
戦争のこと、満州での暮らし。
引き揚げ後の苦しい生活のこと。

母から話を聞けば聞くほど
苦労話しか出てこないような
母の一生。

他人へ尽くしに尽くした母は
人生の最期に選んだ。

他人から心配され
他人からいつも気にかけられて
他人から注目され
他人から尽くしに尽くされる。

認知症は、そんな病。

父は、母に尽くされたから
母は、父に尽くされる。

人生は、プラスマイナスゼロです。

本当の記憶は
あちらにあるのだから
肉体を持った今の時点での記憶は
無くなっても問題はないんだよ。

大丈夫だよ、お母さん。

お母さんは、私を忘れないし
私もお母さんを忘れない。

だから
お母さんを見つけて
お母さんを選んで
お母さんの娘になったんだよ。

大丈夫だよ。

ね、お母さん。

* * * * *

母のお腹に居たときの出来事。

一つ上の兄は黄疸が酷く
おっぱいがあげられなくて
ミルクで育ったために断乳。

私は、年子で直ぐに母のお腹に宿った。

「早すぎる」
祖母の一言で
私は堕ろされそうになった。

母は、私を産んでくれました。

私はずっと
母に捨てられないように生きてきた。

私はずっと
良い子でいようと思って生きていた。

私が3才の頃。
母の兄の家に子どもが生まれなくて
養子を迎える話が持ち上がっていた。

「まーちゃん。ウチにおいで」
いつも、そうやって声をかけて
私を可愛がってくれる叔母の言葉に
てっきり
叔父叔母の子になるものだとばかり思って
過ごしていた。

母が困っているのなら
私が助けてあげようと思っていた。

妹の下に生まれた男の子が
生後100日で
叔父の家へ養子に出された。

おっぱいが張って
溢れてくるお乳を搾りながら泣いている母の姿を
何度も見た。

養子に出された弟と私は
一番繋がりが強くて
いつも気になる存在です。

私が想っているときには
弟も、私を想っているらしい。

こうして
(親に捨てられるかも知れない。)

そんな経験を2回もした。

捨てられないように
もっと、もっと、良い子でいなくちゃならないと
たくさん頑張って勉強した。
賞をたくさんもらった。

母をいじめる祖母から母を守るという正義感と

たくさん褒めてもらえて
他人に自慢できる娘であることで

私の存在する意味を見出だし

両親の手を煩わせないように
決して捨てられることがないように

その思いだけで
子ども時代を過ごした。

私は、私の人生を
私が主役で生きることを選択しなかった。

* * * * *

私に会ってくださった方が
私の話を聞いてくださった方が

「足から人生が変わる!」
と、言ってくださるようになり

「足から地球を変える女」は
私のキャッチフレーズになりました。

本気で、思って
やり遂げるつもりでいますし

すべての人が
身体の不調を手放して
健康になって
幸せになって
笑顔で暮らせる世界を願って止みません。

本気で、地球を
笑顔でいっぱいにしたいのです。

そう願っているにも関わらず

私にとって最も大切で
一番に笑顔でいて欲しい人が
笑顔で過ごしていないのに

地球を笑顔でいっぱいにするなんて
嘘っぱちです。

どう転んでも
出来るわけがない。

身近な人を幸せにできない私が
赤の他人を幸せに出来るわけがない。

私にありがとうを教えてくれた人が
私という人間を作ってくれた人が
笑顔で過ごしていないのに

私が笑顔でいられるわけがないのです。

向けるべきは、自分。

外ではなく。

すべての事象は、自分の責任。

私は私が幸せになることを
誰かへするではなく
私へする。

先ずは自分。を選択する。

使命を掲げても

どんな正義感も

自分が自分の事を出来ていないのは

すべてが嘘。

* * * * *

母の認知症がわかってから
父は、弟のリハビリを毎日やっています。

自分の足で立つことを半ば諦めていましたが
改めて、補装具を作成し
立つ訓練、歩く訓練を始めました。

痛いのを我慢して
必死で努力をするようになりました。

幼少期にお世話になっていた先生との再会により
自立を目指し、できることをやると
弟は、自分で選択をしました。

身体を動かすようになり
足がしっかり着くようになってきた弟の言葉は
どもらなくなり、
緊張感もかなり少なくなり
誰が聞いても聞き取れるほどの
発声になっていました。

* * * * *

実家にいる間の一週間は
ひたすら掃除。

ゴミ袋にして
30袋はあったと思います。

実家の淀みに
私自身の淀みに
大きな風穴を開けました。

東京へ戻ってからは、
毎日、電話することを決めた。

昨日の朝、母と電話で話したら
私と一週間、毎日散歩をしたいつもの道を
40分かからずに
杖なしで歩いたそうです。
「杖なしで歩いてようかなとおもって頑張ってみたとよ。
膝はぜんぜん痛まんやったよ。
ありがとうね。
本当にありがとうね。」

嬉しそうに報告をしてくれました。

父から
夜に電話がかかってきたと思ったら
「明日、ケアマネージャーさんが来る日になっとるけどさ、
絶対会わん!ケアなんていかんけんね!って言い張ってさ、
ひどかとばい。
困ったなぁ。どげんすうか?
どげんしたらよかやろうか?」
私に、助けを求めて来ました。

3人とも良い感じです。

* * * * *

「実家で過ごした私の人生は
暗黒時代だった。」

生きることが難しくて
苦しくて
暗闇でしかなかった。

そう、思っていた。

生まれる前からずっと

幼少期も
思春期も
大人になってからも

まっ暗闇だと思っていた。

しかしそれは

紛れもなく

私自身が選んだ人生でした。

ずっとずっと
ずいぶん長い間
暗闇だと思っていた場所は

光そのものでした。

私が両親を親として選び
両親が作っていく家庭を選び
その中での環境を選び
生きたのです。

その経験のすべては、私そのもの。

私の肉体をこの世に送り出してくれた。

私は、今、生きている。

愛していることを伝えられる人がいる。

これ以上の幸せが
これ以上の生きる意味が
他にあるだろうか?

私は、今、生きている。

お父さん。
お母さん。

ありがとう。

私に、光を、ありがとう。

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