1.幼少の頃のエピソード

出生地  長崎市内
三菱造船所のドックがある町で、世界的に有名な豪華客船が

次々に作られる様子を山の上から見ながら、音を聞きながら、育ちました。

長崎は、坂の町。

どこもかしこも坂だらけ。学校に行くのも坂と階段の昇り降り。

お友達の家に遊びに行くのも坂と階段の昇り降り。

大人になった今も、自分の足で歩くことに抵抗がないのは、歩くことが前提というか

物心ついたときから、坂道や階段は当たり前の生活だったからかもしれません。

・当時どんな環境で育ったのですか?

大工で棟梁、柔道の師範であった父と、専業主婦の母。

絵にかいたような九州の亭主関白夫婦。

住まいは、父方の祖父の家で、間口が幾つかある長屋のような建物の中に

祖父母や父の兄弟と、二世帯住宅。

 

母は、姑や小姑から壮絶にいじめられていたのを、私は、幼いながらに気が付いていた。

夜中に目が覚めると、母が泣いているのをたびたび見ていたから。

「お母さんは私が守らなきゃ。」

今でも時々沸き起こる、理不尽な事態に対しての無意識の正義感は

この頃から芽生えたのだと思います。

 

二人の結婚はお見合いだったけれど

髪が長くて美しかった母に、父が一目惚れしたそうです。

・両親のこと、家族のこと

 

日本に物資がない時代に生きてきたからでしょう

とても物を大切にする人で、分け隔てなく人へ親切にする、心が豊かで優しい両親です。

父は、昭和17年生まれ。

誰に対して接するときも、裏表がない、竹を割ったような性格の人です。

声が大きくて、怖かった。けれど、大好きです。

幼いころに、あぐらをかいた父の膝の中にすっぽり収まるのが好きでした。

休みの朝に早起きをして、少し遠くまでお散歩して、海に行ったり

山の頂上から海を眺めるのが楽しかったです。

いつも、生活の中に「海」がありました。

東京に住んでいる今でも、出かけた先で、磯の香りがすると

故郷の長崎を思い出しては懐かしい気持ちになります。

父が3歳の時に長崎で被爆。(私自身は、被爆二世です)

原爆投下当時の話を

「防空壕からおしっこしようと外に出たけど、B29の機体が銀色にギラギラ光って

怖くておしっこが出なかった」など、当時の話をよく聞かせてくれました。

家には、釜戸や石臼があって餅つきをしていましたし、父は大工道具を触らせてくれて

鋸を引いたり、鉋を引いたり、刃物の扱い方を教えてくれたり

算数を図形でロジカルに教えてくれて、苦手だった算数が好きになったことを覚えています。

 

母は、昭和17年生まれ。

満州で育ち、幼いながらも満州での暮らしや、引上げ後の貧しくて苦しい生活をよく話してくれました。

お料理が得意で、お掃除が得意で、お洗濯が得意で、きれい好きで

子どもたちが出かけている間に、しょっちゅう家の中を模様替えしていて、驚かされました。

一緒に襖や障子を張り替えたり、畳を返したり、は、当たり前の年間行事でした。

母は、ずーっと、台所に立っているイメージがあります。

幼いころは、流しの前に立つ母の隣に、お風呂場から風呂椅子をもってきて

椅子の上に立って、次々に料理が出来上がっていくのを見るのが好きでした。

母が魔法使いのように見えました。

私たち兄弟が育ちざかりの時には、お米屋さんに30kgのお米を注文していましたから

ものすごい食費だったのだろうなと思います。

 

母はいつも言っていました。

「お父さんは偉いね。神様の上に立つのを許されるお仕事は大工さんだけよ。

お父さんが建てたお家はね、強くて立派で台風が来ても倒れんとって。お父さんすごいね!」

 

「ありがとう。」と「ごめんなさい。」

いつも笑顔でいること。挨拶をすること。お礼を言うこと。人に親切にすること。

教えてくれたのは、両親の、日々の行動だったと思えます。

 

兄弟は、

昭和43年生まれの兄(一つ上)

昭和47年生まれの妹

昭和50年生まれの弟(生まれて100日で、母の実兄の養子になりました)

昭和52年生まれの弟(障害がある弟です)

私が物心ついたときから、私はてっきり、伯父の家に自分が養女になるものだと思っていました。

子どもを授からなかった伯母が私をとても可愛がってくれて

「まぁちゃん、うちの子になるね?うちにおいで~」と言われていた。

伯父は看板屋さんをしていて、絵がすごく上手で、憧れの存在でした。

伯父の家には、私ではなく、弟が、養子に出されました。

大人たちの会話の中、無意識下で、母に捨てられないようにと「物分かりのいい子」を演じていました。

 

弟さんの障がいのこと。

産まれたときは特に問題はなかったようでした。

兄弟も多かったからか、弟は赤ちゃん用の歩行器で部屋の中を移動していたからか

自力で歩けないことに気が付いたのも遅れて、発見が遅かったのかも、、と母が言っていました。

弟が歩けないことが分かってから、我が家は生活が一変しました。

弟の身体検査、脳波の検査や、病院通いの毎日。

結局、歩けない原因は未だにわかりません。障害者手帳には「小児脳性麻痺による」と書かれています。
母は、40歳で、車の免許を取りに行きました。

どんどん体重が増えていく弟を、両親や、私たち兄弟が、抱っこしたりおんぶしたりの日々は

自宅まで続く階段の昇り降りには限界がありました。

 

土地が少ない長崎の町の中で、車が横付けできる土地を手に入れ、ましてや

自分の家を建てるとなると容易いことではなく

父は「車いす専用」の住居が市営アパートの中につくられることを知り、入居を決めました。

両親が居るのに、家があるのに、そこから離れることは、世間体を重視する祖母も、父の兄弟も

許すわけがなく、母が当時どんな思いで日々を過ごしていたのだろうと思うと、言葉になりません。

 

弟は今年、40歳になりますが、知能は小学校1年生くらいかな?

奇跡のように可愛かった弟ですが、現在の見た目は十分におじさんになりました(笑)

心は、純粋で、優しいままです。

妹が結婚し、子どもが生まれました。(現在高校1年生になる姪っ子)

妹が長崎へ里帰りしたときに、私も一緒になるときがあって

ハイハイしていた姪っ子がつかまり立ちをし、一人で歩けるようになったときに

弟が言った言葉が、今でも鮮明に記憶に残っています。

その時の言葉。

「はるちゃんは、ひとりで歩けるようになって、えらかねぇ~。ぼくは歩けんとよ。」
「ずっとハイハイしたまんまばい。」

 

歩ける時期になると、歩けるようになるのが当たり前だった。

だけど、弟は、そうではなかった。

このときの弟の言葉が、いまの私の仕事の原動力になっていることは揺るがない事実です。

 

弟は、小学生のころ、松葉杖や装具を付けて、立ったり、スローターを押して

歩くことができた時期はありましたが、自立し自分の足だけで歩くということは、結局できず

車いすを選択しました。

 

あの頃、両親も私たちも、諦めずに、ずっと歩く訓練を続けていたら

もしかしたら歩けるようになったかもしれない。

私の中では、今でもその後悔があります。

きっと、私以外の兄弟も、もちろん、両親も、同じ気持ちだと思います。

 

妹は、訓練に通う両親と弟を見て、自分自身が幼いころから喘息がひどくて病院通いが多かったこともあり

進路を決めるときに医療の道を迷うことなく選んだようです。

弟の訓練の先生に相談したりして理学療法士と看護師の道を考え迷っていました。

 

だからこそ、なのだと思います。

 

3年前、私が帰省時に、母の異変に気が付き、その後、妹が母を病院へ連れて行き

アルツハイマー型認知症を診断されて以降、

父と弟は、再び、歩く訓練を始めました。

 

30年近くも、一人では歩くことができなかった弟が、母のことを受け

自分の足で立ちたい、歩きたいと、自分の意志で選び、痛くてツラい訓練を

父と毎日行っていることを知ったときは、涙が止まりませんでした。

 

先日、弟と電話で話したら、以前と比べると明らかに言葉がはっきり聞き取れるようになり

緊張が取れて、どもりが減りました。

「雅恵ねえちゃん。スローターで30メートルば往復できるようになったとよ!」

 

あの日の、弟のあの言葉。

「はるちゃんは、ひとりで歩けるようになって、えらかねぇ~。ぼくは歩けんとよ。」
「ずっとハイハイしたまんまばい。」

自分の選択で、マイペースながらも、いま、再び歩けるようになってきている弟を目の前に思います。

年齢は、関係ない。

私たちは、無限の可能性を秘めている。

自分が、やると、決めるだけ。

決めたら、とことん、やり続けるだけ。

 

小学校、中学、高校時代の部活や活動でのトピック。

(勉強、部活、トモダチと遊び、趣味、流行っていたことなど)

 

(小学校)
*書道を習い始める
*国語が得意
*体調不全??(症状など)
父も母も、字が綺麗でした。

幼稚園に通っていた4歳くらいで字が書けるようになって、5歳で簡単な漢字が書けるようになって、文字を書いたときに、きっと、たくさん母に褒められたのだと思います。

得意なことで、もっと両親に褒められたくて、書道を始めたのだと思います。

5歳から始めて、結婚するまでずっと学んでいました。

小学、中学、高校と、たくさんの賞をいただき賞状やトロフィーもいただきました。

 

小学校では冬でも半ズボンで登校するのがマイブームで男の子たちと競っていました。

割と活発な方でした。

縄跳びが得意で、ムササビ、ハヤブサ、後ろ二重跳びなど、ずっと跳んでいました。

高学年ではソフトボールをしていて身体は小さかったけれどキャッチャーでした。

オセロ、トランプなどもよくやっていました。

 

現在の仕事をビジネスとして展開していくときに、自分の強みを見出そうと、

コンサルタントさんへ相談したことがあります。

その際に「子どもの頃の遊びの中で、どんな遊び方をしていたか?」

「何が楽しかったか?」と質問されて、オセロゲームについて思い出したことがあり

楽しかったことを伝えました。

「オセロで勝つことが楽しいわけではなかったです」

「勝つためにゲームはやっていなかった」

「角を取れば勝つことを知った時が、楽しかった」

「そうです!どうやれば、勝てるのか、仕組みが分かった時が一番面白かったです!!」

 

何にも道具がないところから、いろいろな遊びを思いついていました。

例えば、学校帰りにお友達とじゃんけんして、負けた人がみんなのランドセルを背負って

次の電信柱まで行く。とか。

帽子を最大幾つまで被れるか?とか。そんな子供時代の話をしたら

 

その時のコンサルタントさんから「自分で仕組みを作りなさい。他人に使われポジションの人ではないですよ。TOPの仕事をやる人。マッチングも得意、0から1を生み出すのが得意ですよ。」とアドバイスを戴きました。
国語が得意でした。

読みとり、書きとり、漢字、作文も得意でした。

周りの同級生が皆、読書感想文にひと苦労していたのを見ながら

正直、書けない意味がよく分からなかった。

 

体調不良の記憶は10歳から。

肩こりと、便秘。

小学校にはプールがありませんでした。

ごみの焼却場が完成し、子どもの足で一時間くらいで歩いて行ける所へ温水プールができて

土曜日、みんなで行こう!となった時に

友人が私の家まで呼びに来たのに私は、汲み取り式のお便所の中で一人

うんうん唸りながら出ないうんちと格闘していた、臭いと共に鮮明な記憶が刻まれています。(笑)

 

11歳の時です。

足が痛くなって「お母さん、足が痛い」と訴え、隣町のかかりつけの外科へ診せに行きました。

家族中がお世話になっている先生。

レントゲンを撮ったら足の骨が曲がっていて、先生が言いました。

「お母さん。御嬢さんは外反母趾です」「雅恵ちゃん、見て、これわかる?」

と分度器を取り出してきて、レントゲンの上に赤い線を引きました。

「ここの角度が15度をこえたら、外反母趾っていうの」

「先生。がいはんぼしって、治る??」

「ほら、お母さんの足のゆびも、曲がってるでしょう?お母さんから生まれてるからね。治らないかもしれない。」

 

その時の記憶はとても鮮明です。

外反母趾と医師が診断を下す「15度以上」という基準角度を、この時の医師の言葉で知りましたし

母が外反母趾であることも、この時に知りました。

 

当時の私にとっては、身体がかゆい時に、かゆいのを取り除く薬を出してくれるスゴイ先生。

走ってこけて、折ってしまった私の鎖骨を治してくれた先生。でしたから。

信頼してきた先生に、「治らない」と言われ、

私が大好きな母にまで「お母さんも外反母趾だから」と言われ、絶望の淵に突き落とされたような衝撃でした。

その時に思ったのは

(お医者さんなのに、なんで治せないの??)

「病気を治すのがお医者さん」と、当たり前に思っていたことに疑問を抱いた出来事でした。

(中学)
*バスケ部所属も万年補欠
*英語が苦手
山の上に立つ中学校は、隣町まで歩いて1時間くらい。

小さな学校だったため部活もさほど多くはなく、当時、楽しいなと思ったバスケ部に、なんとなく入りました。

身体も小さかったし、欲もなく、適度に身体を動かせていられれば満足でした。

チーム自体も、弱小だったこともあり、活動はしていましたが、あまり一生懸命はやらなかったです。

ある時に、なにがきっかけだったのか、外部からコーチが来て、一時的に指導されたことがあります。

試合に一勝でも「勝つ」ことを目標にし、そのための作戦を立てて練習をしたら、ほんとうに勝って、感動しました。

私は補欠でしたが、リードポジションだったので

指示出ししながらの目線を外してのドリブルやパス、ロングシュートもたくさん練習して

思い通りに身体が動かせるようになったことは「努力は実を結ぶ」貴重な経験でした。

過去のどの試合よりも充実感が得られて、楽しかった。

勝つことよりも嬉しかったのは、みんなで目的を持って得た一体感でした。

 

英語は苦手意識というのか、中一の時の英語の先生がおじいちゃんで、発音も滅茶苦茶で「こりゃダメだ。。」と思った時から、全く勉強していません。

試験はなんとなーく、で平均点を下回ることなく。

進んだ高校は進学校でしたが、英語の勉強は、ここでも全くしませんでした笑。

言語は通じなくても意思疎通は可能だ!コミュニケーションは図れる!と

何が根拠なのか自分でもよくわからないですけれど、言葉は勉強で身につけるものじゃなく

習慣の蓄積だから。と思っていて、中一で、英語を学ぶことは捨てました。

(高校)
*美術部入部(経緯も)

美術の授業が好きで、デッサン、模写とかデザインとかも好き。

塗り絵が好き、マスキングテープを貼った上から絵の具を乗せて、乾いてぺりぺりとテープを剥がすのが好き。

中学の美術の先生が、高校の進学先が決まった時に

「うちの息子があなたが行く高校の美術部の部長をしているから、ぜひ、美術部に入ってください」

というので、入部した。

地元でも、進学するための勉強学校で有名なところだったため、運動の部活をするつもりもなかったから。

*県展油絵部門で入賞

ゆるーく、美術部でデッサンしたり、油絵を描いていました。

父が若い頃に趣味で油絵を描いていたらしく、油絵を描くための道具一式がすでに揃っていたこともあり

私が油絵を描くと言ったら喜んで道具を譲ってくれました。

 

美術部にいながらも、書道塾へは毎週通っていました。

 

運動会の時に、4色に全校を色分けして、赤、白、青、緑、それぞれのチームカラーの大きな幕

確か、3メートル四方くらいの大きさです、を、美術部で描くのですが、その幕を描くのがすごく楽しかった。

誰もが知ってるような過去の有名な絵画を、フレームで分けて、拡大しながら転写して行く作業。

運動会が来ると毎日朝も昼休みも放課後も、部室へ通いつめました。

強く印象に残っているのは、有名なナポレオンが馬にまたがっている絵を描いた時。

*1ケ月間療養も?(状況など)

 

体育の担当で剣道7段の、苦手なタイプの教諭が、高2の担任になりました。

生活指導の先生でもあり、とにかく厳しくて。

「この人のところに一年いなきゃならないんんだ。。」ショックから学校に行けなくなりました。

当時はそのような病名が一般的ではなかったのですが

あれは間違いなくストレスからきた自律神経失調症です。

朝起きると、胸が苦しくなったり、息ができなくなったり、お腹が痛くなったり

母が心配して、いろんな病院へ行きましたが原因は分からず。

 

身長は現在と同じ155cmで体重は40kgくらいでしたから、痩せてて、青白かった。

夏場に友人から「一人だけ涼しそうな顔してるね〜」と言われた言葉を覚えています。

 

勉強が遅れるのはとてもとても不安でしたが、やはりここでも英語を捨てた時と同じで、どこか楽観的でした笑。

再び、学校へ行けるようになった理由がまたおかしい。

「クラス写真を撮るよ」の連絡があり学校へ行きました。

休んだ人が右上に一人だけ後から乗せられる写真が嫌だったから。

 

その後は何事もなかったかのように、フツーに最後まで通学しました。

 

小中高ともに、共通して、いつも学級委員をしていました。

みんなの意見をまとめること、前に出ること、代表で発言すること、人が言いたくても言えないことを

代弁すること、など、臆することなく行なっていました。

 

 

(大学受験に向けて)
*やりたいことが見つからない、もどかしさ。

*受験はしたが、、、

 

幼少期より、父からは兄弟みんなに「学校は公立しか行かせられないから。」は言われていて

なんとなく成績に合わせて指折りの進学校に入学はしたものの教師になるつもりもなかったが

他の同級生、皆が大学受験をして行くので、私もした方がいいのか?となんとなく共通一次を受け、

ずっとやってきたことだった、福岡の教育大学に特別教科として書道科があるのを見つけて

付け焼き刃で受験しましたが、受かるわけもなく

浪人してまで大学に行く意味も見出せず、卒業後は、自動的にフリーターになりました。

 

やりたいことが見つからない。

ずっと、他人の期待に応え、他人の望みを叶え「私はこうしたい!」との自分の意思によっての選択をしてこなかったから。

 

*この時の体調は?

自律神経失調症、ニキビ、肩こり、便秘、冷え、身体の硬さ、などがありました。

2.フリーター時代
(総合病院、眼科看護助手)

学校の成績も決して悪くなく、おそらく誰もが大学へ進学するであろうことを疑っていなかった、当時の私が

受験した大学に落ち、浪人することもなく、就職活動を始めるでもなくプラプラしている私をみかねたのか

心配した友人のお母さんが、日赤の病院でアルバイトを募集しているからきませんかと声をかけてくれました。
外来の眼科での看護助手という職業で、医事課からカルテを受け取り

診察で待っている患者さんを順番に呼び込んだり、他の科への案内をしたりしていました。

その仕事は更新をして2年続けましたが、ご年配の患者様が多いところで

名前と顔とを記憶していて、重宝されました。

(教材販売会社、営業事務)

正社員になろうと職を探して、就職しました。
外回りで営業さんが取ってきた商品の伝票を起こしていく、事務を行なっていました。

ここで会社の仕組みを知りました。会社が教育事業から介護、福祉、へと移行してく時期で、会社の方針が変化、様々な異動や離職者が続き、上司との意思疎通ができず、一年半で離職。

 

(税理事務所)

伯父の紹介で、税理士事務所へ就職。主に伝票の入力作業を行なっていましたが

いつの間にか、確定申告書の書き方を理解していて、この頃から父の確定申告は私が行なっていました。

経理の基礎を学んだというわけではありませんが

ざっくりと課目ぐらいはなんとなく判断できるので、役に立っています。

社員さんのほとんどが喫煙者で、事務所の壁がヤニで真っ黄色に染まるほどでした。

ある時からひどいくしゃみと鼻水が出るようになって、耳鼻科に行ったら

「アレルギー性鼻炎と花粉症」を診断され、体調がすぐれなくて一年半で離職。

(食品問屋)

*食材に詳しくなる
*営業への転属辞令(辞めた)

父が以前に仕事をしたことがある建設会社の、娘さんが嫁いだ先の食品卸会社に就職。

小さな会社だったので、営業事務、仕入れや販売、いろいろ任されてやっていました。

主に、お客様が、ホテルやレストランだったので、現場で調理を担当するシェフや

仕入れ担当の方と電話でやり取りすることが多かったです。

社長がグルメな人で、珍しい輸入食材も多く扱っていて

例えばナタデココが流行った時には、いち早く在庫を持っていて「長崎で取り扱っているのがうちだけ」とか

「冷凍じゃないフレッシュのフォアグラやトリュフを空輸で入れられるルートを確保した」とか

コーヒーを生豆で仕入れて自家焙煎販売していて、流行りを先取りするような面白い仕事をされていました。

珍しい食材を扱うたびに、仕入れ先に問い合わせをして教えてもらった情報を、自分の中に増やし

コックさんへ食材を説明したり、の担当をしているうちにどんどん食材に詳しくなり

仕入れの交渉ができるようになりました。

ある日社長から、配送の人の車に同乗して、営業に回ってきてくれと言われて

「私は事務で雇われたから営業はやりたくないです」と社長からの打診を断り

5年も勤めた面白かった職場を後にする。

振り返ってみれば、この頃から、無意識の営業力、クロージング力があったのだと思います。

社長はいち早く私のセールス能力を見出していたのでしょう。

(モスバーガー)

当時、妹は、大阪の看護学校の寮に入り、カフェでバイトをしていました。

一番長く勤めた会社を辞めた私に

「姉ちゃんは、サービス業が向いとると思うよ。やったことある?いっぺん接客やってみたら?」

の言葉をかけてくれました。

事務しか能力がないと決めてかかっていた私が、人生で、初めてサービス業に就きました。

新店舗スタッフとして、モスバーガーでのスタッフ募集があったので、応募したら合格して

さらに、アルバイトではなく社員としての入社が決まりました。

フランチャイズで、新店舗で、オペレーションが確立している職場など、初めての体験で

ましてや、社員としてアルバイトさんを教育していく立場にいきなり立たされ、それはそれは試練の日々でした。

接客は楽しく、仕込みも楽しく、お祭りの日などはバンバン売り上げを伸ばしていく営業も

楽しく仕事していましたが、教育する側としてのポジションは、なにせ全くやったことがなくて

本当に大変でした。

 

未熟なアルバイトさんに対して、ストレスや圧力をかけていました。

私が未熟でできないことを、アルバイトさんのせいにしたり、責任をすり替えていたのですよね。

怒鳴ったり、自分の気分で仕事をする最悪の社員でした。

辞める時に店長が教えてくれたことがあって、

私の機嫌が良いかどうかをアルバイトさんは、店長に尋ねていたらしいです。

ひどい働き方をしていました。

自分に対しても、他の人に対しても。

良くなりたい気持ちはあるのに、心と身体がつながらない、

正直に「できない」「わからない」「助けて」が言えない自分が歯がゆかった。プライドが邪魔をした。

 

(2000年10月結婚、東京へ)

主人と出会ったのは、食品卸の仕事の頃です。友人を介して、知り合いました。

その時から数えると、出会ってから23年くらい経ちます。
東京への転勤が決まって、長崎で結婚式を挙げ、先に上京した彼を追っかけてきました。

結婚式に、招待した友人たちの欠席。

私は親友だと思っていた人たちが、出席してくれなかったことで、初めて、自分の過ちを知る。

自分が行ってきたことは、たくさんの人を傷つけてきたのだと思い知りました。

人生をもう一度やり直したいと思いました。

主人との出会いは、そのためだと思いました。

物事を俯瞰で捉えることを教えてくれました。

他人へ期待しない生き方を教えてくれました。

素直だったはずの自分は、人の期待に応えることばかりに注力してきて、

相手を思いやる気持ちもなくなって

自分を保つために必死で築いたプライドばかりが高い、傲慢で、高飛車な、大人の女性になっていました。

主人とお付き合いをしている時も、「そういういい方しなくても・・」と言葉がきついことを

たびたび指摘されていて、自分ではどうしようもなくて、

本音を伝えたいときには手紙を書いて渡していました。

 

結婚し、家族の健康を守るために、私自身がまず、健康であろうとおもい、

彼は自分の体調管理はできていましたが、おつきあいをしていた頃も、

いつもどこか身体の調子が悪い私をみて、自己管理できるようになってねと言われていたこともあり。

 

過去のひどい私を知る人が、だれもいない東京で、やり直すことを決めたのです。

 

*花小金井

2000年から今日までずっと住んでいます。

新しい暮らしが始まること、昔の「生きづらさ」を感じていた自分に、ここで決別をしようと思いました。

これまでの選択を、逆転させていった。

判断を誤り、言葉を間違い、小さな自分の世界の中だけでの正しさを主張するあまりに

強く出てくる正義感を振りかざすのを止めたかった。

他人を傷つけ、自分を傷つけたくなかった。

直ぐに、発言をするのを止めて、考えて言葉を生み出そうと努力をした。

想いをつづることを続けようと、日記をつけた。

 

3.起業のキッカケ
(子供の頃からの体調不良)

起業をしようと考えて起業したわけではなく、身体のことを探求しているうちに、情報が増えてきて

友人にシェアするようになって行った。

はじめに学んだリフレクソロジーの施術の練習を、友人たちに足を借り自主トレーニングをしていました。

いろんな足を触りたくて。

「すごい!気持ちよかったし、足ってこんなにすぐに変化するんだね。!開業したら教えてねー」

学び始めたのが2003年からで、そこから、いろいろ学んでは、要らないものを捨て、

必要なものを学び、取り入れてはブラッシュアップして、の繰り返しです。

この作業は現在もずっと続いています。

・悩みと解決方法
ニキビ、腰痛い、肩こりひどい、冷え、むくみ、常に調子悪い…
花粉症、自律神経失調症、不調を改善すべく、子どもも授かりたく

体力づくり、ヨガ、断食、食事の改善、ホメオパシー、など、様々な健康法に取り組みました。

東京には友人も居なかったから、バイトをはじめました。

・シュークリーム屋さん、ビアードパパのバイト

カスタードクリームを手作りするために大きなボウルで泡立て器で手で撹拌。

肩こりがひどく駅前のクイックマッサージで、翌日揉み返し。

起き上がれないほどにツラく、マネージャーに相談したら「鍼がいいよ」と勧められる。

主人へ鍼の治療を受けるに当たり相談したら、自分も学生時代に鍼は受けたことがあるし、鍼はいいよ。

ときいたので、駅から自宅へ帰宅途中に「はり・きゅう」の看板を見かけていたことを思い出し、

治療院の扉を叩く。

アルバイトは、マネージャーが私の仕事ぶりを評価してくださったのか

次第にアルバイトリーダーのような立場になりつつあったことと、勤務状況の肉体的ストレス、

また、社宅に住んでいたこともあり寮長の順番が回ってきたことと重なって、辞めることを決断しました。

(近所の鍼灸院との出会い)

叩いた扉の先には、穏やかな笑顔で微笑む男性が居ました。

肩に鍼を打つのかと思いきや、先ず、足の方から。

初めての鍼は、これまでに感じた事がない、身体の軽さを得られました。

「先生。助けてくださってありがとうございます」

そういったら院長先生は「井手口さんの身体の回復力が高いからですよ」とおっしゃった。

「病気は医者が治すのではないでしょう?お薬が治すのではないでしょう?」

「ちょっとしたキズは、放っておいても治っちゃうでしょ?」

優しく微笑みながら、教えてくださいました。

 

そうか!治すのは、治療する先生じゃなくて、私のカラダ!

「自己治癒力」を、身体で捉え、自ら感じた瞬間でした。

 

定期的に通いながら院長先生との会話も増え

「お手伝いしてくれる人を探しているのだけど、お知り合いにアルバイトできる人、ご存じないですか?」

シュークリーム屋さんの仕事に限界を感じていた私は、院長先生のところで、アルバイトをすることに決めたのです。

(鍼灸院でのアルバイト)
「苦悩や痛みを取り除く仕事」「日々、他人から感謝される仕事」の素晴らしさを感じながら過ごしていました。

それも、決して、先生ではなく患者さんが自分で行っていることを目の当たりにしました。

ある日先生が「患者さんがうつぶせになっている時に、気持ちよくリラックスできるように、足

の裏を井手口さんの手やゆびで押してあげてください」と言われて、

見よう見まねでやっていると「気持ちが良かったです」「ありがとう」と声をかけられるようになり

それはそれはとても嬉しかったのです。

「ひどい生き方をして、たくさんの人を傷つけてきた私が、他人様のお役にたてている」って。

鍼灸院では、赤ちゃんを望む「未妊」の女性や、ご夫婦の治療をなさっていて、私と同じ世代の方も多く訪れました。

リラックスできるようにと、院長先生がベッドの横にアロマオイルを置いたりしていたので

アロマの勉強をしようと思い、アルバイトがない日に、アロマテラピーの学校へ通い始めました。

院長先生の依頼で、みなさんで行うヨガ教室などを、私が企てたりしました。

 

この頃に治療院へ通ってきてくださって、出会った方は、今でも交流があります。

その中の一人が、私へ教えてくれました。

「足だけを揉んだりほぐしたりして身体を整えるリフレクソロジーというの、知ってる?

すごい人がいるから、受けに行って来たらいいよ。」と紹介してくれたのが

のちのリフレクソロジーの師匠です。

その方は、独自で勉強したり、タイへ学びにいったりして、オリジナルの施術をなさっていました。

定期的に整えてもらいに通ううち、「自分の手技をそっくり体現できるお弟子さんを育てたい」という意向で

私に学ばないかと声をかけられます。

 

11歳で足が痛くなって医師から外反母趾を診断され、どんな靴もいたくて、いつも足のことが気になる。

「足」を整えることに対して無意識化で重きを置いていたのでしょうね、足について学んでいくことには

抵抗はありませんでした。

当時、主人が会社に忙殺されていて、自己管理できるはずなのに常に疲労困憊でしたから

「寝ている間に、彼の足を触れたら、睡眠を妨げることもなくていいかもしれない」

リフレクソロジーというのを学びに行きたいことを伝え、勉強を始めました。

 

(リフレクソロジーの学校、他足についての勉強…)
学校へ行きスクールで学ぶのではなく、個人でやっていた師匠のもとへ、弟子入りするような形での学びの日々。

それは、私の生き方、在り方を問い続ける、人生の勉強でした。

 

忙しい親に対して、心配をかけまいと、何でも一人でできるしっかり者のお姉ちゃんを演じていた私は、

あまり親へ悩み事を相談することをしませんでした。

人とつるむのが嫌いでした。友達を誘ってみんなでトイレに行く女子たちが嫌いでした。

学級委員をやってきたのは、決められないクラスメイトを見ているとイライラしていたから。

相談したり、助け合ったり、協力し合ったりすることを、学んでこなかった一匹狼の私は、

小さな狭い自己概念の中で、正義を振りかざしていた私は、井の中の蛙。

師匠の下で学んだのは「無知の知」でした。

知っても知っても、学んでも学んでも、まだまだ。まだまだ。

 

その「気づき」は、果てしなく大きかった。

気付いたときに、顔から火が出るほど、恥ずかしかった。

穴があったら入ったまま、もう一生、穴から出なくてもいい。

こんな私で、今まで生きてきて、ごめんなさい。

三ヶ月ほど、毎日泣いて暮らしました。

 

生まれて初めて体験した挫折感。

自分の意志で「やりたい」と選択した学びだったからこその挫折感。

 

それまでの人生の中で、人の要望に応えてばかりいた私が初めて味わったことでした。

悔しさと、恥ずかしさと、消滅してしまいたい気持ちの中で、他人軸で生きてきたことをようやく知る。

 

2004~2006年、師匠の下で2年学び、その後、たくさんの人の足に触れ、たくさんの足を知るよう、友人にお願いして、足を貸していただき、リフレクソロジーを練習していました。

2011年、ドイツ式フットケア・フスフレーゲの学校へ。

巻き爪の矯正、角質を削ったり、魚の目を除去したりするフットケアの先進国であるドイツの技術を習得。

いろいろな足を見る中で、タコや魚の目、かかとのガサガサをたくさん目にし、必要性を感じ、学び続けました。

2012年、ゾーンセラピーの学校へ。

最初の師匠の下では学ばなかった、解剖生理、身体と心と魂の関係性を学びました。

キンキンに冷えていた私の足を触り、先生はひとことおっしゃった。

「雅恵さん。よく生きてきたね。」

他人軸で生きてきて、身体ばかり大きくなって、未だ心は子どもだった私は、先生の下で

「自分の人生を生きる」と決めた。

自律神経の乱れは、この頃から少しずつ改善していきました。

2012年、足と靴と歩行をトータルで学ぶ自然療法フットケアを通信教育で学ぶ。

足だけケアしても変わらない。靴を履いて歩くのだから、足と靴とは同時にケアしなくては。

歩行の重要性を再認識し、そのヒントが見つけられた学校でした。

が、それでも、毎日歩いていましたが、私の足先の冷えは一向に改善せず、

どうしたものかと思いあぐねていたところ、足のゆびについて書いている本を目にしました。

ゆびを使って歩けば、冷えは解決できるかもしれないと思い、

歩くときにどんなふうにしたら、足のゆびを使って歩けるかを試行錯誤していきました。

「そうか!動物は、かかとを着地させていない。

二足歩行の人間だけがかかとを下したんだ!」と気が付いてからは

これまで学んできた、足のこと、反射区療法のこと、靴のこと、歩き方のこと、

バラバラだった点と点が次々につながっていきました。

 

2013年に開業届けを、提出。自宅そばの古いマンションの一室に、サロンを構えました。

この物件を借りるとき何かに導かれるようでした。

出たばかりの物件を、たまたまみつけて、即契約。

知り合いの方も入居していて、いろいろスムーズにとんとん拍子で決まっていきました。

ありえない安価の家賃で望みどおりのスペース。

この時の屋号は「なごみ庵」。

自宅で、リフレクソロジーをしたり、角質を削ったりするなかで

「雅恵さんと話すとなごむ」と言っていただけた方の言葉からとり、名づけました。

他人から私と話して「なごむ」なんて、言われたとこがなかったから、嬉しかったんですね。

 

4.起業後のエピソード

起業後の試行錯誤について、色々教えてください。

 

チャレンジ。

2013年5月から6月中旬まで、ひと月半をかけて、私の体調不良を一つの方法で解決すべく

自分の身体を使って、学びの集大成を詰め込み、実験しました。

結果、45日で、ズボンのサイズが2サイズダウン。

冷えがたちまちに解消。肩こり、腰痛、頭痛、生理痛、便秘、不調という不調が、全部なくなりました。

気が付くと、今までフスフレーゲマシーンを使って削っていた足の裏にあったタコが消えていました。

お風呂でいつも軽石で削っていたかかとのガサガサが、いつの間にか、なくなりました。

魚の目が、ポロリと取れました。

小さくなっていた小ゆびの爪が大きくなってきました。

ねじれていた親ゆびが正面を向いてきました。

「あれ?!外反母趾が良くなってきている!」

 

下半身が太くて、大きなお尻と太ももを何とかしたくて、下半身を痩せさせたくて、

埋もれているアキレス腱をくっきり出したくて、独身の頃から三か所のエステにウン百万もかけて

通いましたが、結局は痩せませんでした。

ジムに通いました。

走りました。何をやっても、下半身は痩せませんでした。

それが、たった45日。

誰にも頼らず、努力もせずに、日常に普段どおり歩くだけで

最大のコンプレックスだった下半身痩せに成功したのです。

 

足と、靴と、歩行を、同時にケアする、オリジナルメソッドの、誕生。

 

お客さまがお客さまをご紹介くださり、行列ができました。

みんなが必要としていること。

「ビジネスにしていこう。」スケジュール帳がお客さまの予約でいっぱいになる中

趣味の域ではなく、このメソッドを「売る」ことにシフトチェンジしました。

(このままでは、忙しすぎて、私が壊れてしまう・・)

どうにかしたくて、マネジメントの必要性を感じ、コンサルタントさんに相談したり

マネジメントの勉強をしました。

 

私の強みを知り、強みに特化し、一緒にビジネスを学んだプロモーションが得意な同期に依頼をし

徹底的にブランディングをしていきました。

 

2014年9月に アシタスタイルへ改名。

足は、なんとなく汚いイメージだったり、多くの人が人知れず悩みを抱えている器官。

人に見せたくないところ。

あまりキレイなイメージをもたれにくい「フットケア」のイメージも一新したかった。

 

健康は何かを諦める必要があったり、美を求めると、我慢を強いられる。

そんなのは、おかしい。

美と健康は、同時に手に入れることができると伝えたい。

 

カッコイイ。スタイリッシュ。憧れ。

佇まいや立ち振る舞いや、発言も行動も、私が示していこうと考えた。

 

それらを叶えられるところにしたくて、私自身が体現できる人であろうと

ビジュアルプロモーションをやり続けました。

 

目立たなければ、見つけてもらえない。注目してもらわなきゃ、私の望みは叶えられない。

 

私の望みは、みんながいつも、笑っている世界です。

身体の不調を手放し、痛みから解放され、自分の足で、行きたいところへ行き、自由に飛び回れること。

自分が選択する人生を自分の責任で生きる一生。

 

私が足のことを学び続け、私自身が地に足を付けた人生を歩めるようになったことで

自分の足で人生を歩めるようになったこと

何のとりえもない、ただの人が、諦めずにやり続ければ、望みをかなえられること。

一つの小さなきっかけから「なぜ?」が始まり

細い糸を手繰り、紡ぎ続ければ、強くて太い綱になっていくこと。

 

誰だって、やると決めて続ければ、いつかは成し遂げることができる。

 

学もない、経験値も低い、こんな私ができたんだから、誰だって夢をかなえることはできると伝えたい。

 

 

一人で始め、すべてを一人で行っていたけれど、だんだんとお客さまが増えていく中で

試行錯誤ばかりでした。

■クオリティを下げずに、現状の予約枠を広げるには、どうすればよいかのTRY

■結果、無駄を徹底的に排除(作業効率化)

■膨大な作業量を整理するために「アウトソース」という概念を取り入れる。

行っているタスクを、細かく全部書き出して、「私にしかやれないこと」をのこして、そのほかの業務は、他人にやってもらう。

■スタッフの採用、外注で関わってくださる方の、それぞれの「強み」を見出すこと。

ココができなければ、苦手な作業に対して時間ばかりを割くことになり、それを行う本人にもストレスがかかるから。

 

全国から、海外からも、わざわざ花小金井へ来てくださるお客様、1時間半かけて

花小金井まで通ってくださるスタッフ。

アクセスがいいところへ引っ越しをしようと考えました。

2015年、6月に、新宿御苑前に移転。

 

物件は、人と同じでご縁だなぁと感じました。

花小金井の物件の時もそうでしたが、決まる時のとんとん拍子感は、いつも驚きます。

いろいろ探して、ご縁がない物件には、契約できないようにことごとく邪魔が入りました。

今の物件を見つけたときは、鳥肌が立ちました。降って湧いてきたような物件だったから。

(広~い窓から望む景色は、空の青が半分で、木々の緑が半分で。)

そんな私のビジョン、そのままの物件が目の前に現れた。

申し込んだときにはすでに予約物件で、キャンセルにはなりにくいだろうといわれたけれど

「絶対にここに入居しよう!」とみんなで念を送りました(笑)

キャンセルが出て、審査という審査もほとんどなく、簡単に契約できました。

あの時の流れは今でも不思議な感覚で、夢の中での出来事のように思えます。

当初の予算よりオーバーする家賃でしたが、今後、大きな目的に向かってアシタスタイルを羽ばたかせるには絶好のロケーション。

スタッフも、とても気に入っており、モチベーション維持にも役立っています。
(念願の事務所を御苑にOPEN)

フットケアサロンは、会員制の美容室のようにしたかったので

イタリアンモダンのイメージでインテリアを統一していきました。

 

アシタスタイルのロゴを作ってくださったデザイナーさんが、

「スターバックスのラテを片手に道行くキャリアウーマンのイメージで」

作成してくださったロゴが、白黒と、赤黒のものを上げてくださって、

ビジュアルプロモーションをしていた私に、ちょうどヒットして、

赤黒のロゴの合わせてインテリアも統一していき、赤と黒と、シルバーで

「雅恵さんには、キラキラが欠かせないから」とインテリアの相談に乗ってくれていた

美に妥協を許さないセンスの優れた友人にアドバイスをもらいながら整えていきました。
*スタッフ養成について

強みを見出して、特に得意なことに特化して、役割分担をしてくことをやっています。

なごみ庵の時から一緒にやってきた二人は、紹介から出会い、ご縁を育んできた人たちです。

言いたいことを、我慢せずに、できるだけ溜めないうちに、吐き出すことをいつも話していて

ストレスがないように過ごそうと、たくさんコミュニケーションを図っています。

私としては、親兄弟よりも、スタッフの方が、私という人間の特徴を知っているのではないでしょうか(笑)

自分の苦手も、弱みも、すべてをさらけ出して、私自ら、助けてほしいと言っています。

正直な気持ちで、過ごしています。

ウソをつかないようにしています。

自分以上に誇大にならないよう、自分以下に卑下しすぎないように

私は私のサイズ感で生きることをしていれば、スタッフも自然に準じてくれます。

創業者である私の生き方そのものが、会社になっていくのではないかと思っていて。

社長自身が、実(じつ)で見せることなのではないかと。

 

誠実を超える、スキルはありません。

驕らず、正直に、真摯に。無知の知。で、生きていきたいです。

*スクール開校
広めていくためには人材育成が欠かせません。

いろいろ学んできた中で、足についての「教育」の位置づけがなされていないのだなあと感じました。

特に靴に関しては、ここへ至るまでに情報を得ることがとても難しかった。

靴づくりの技術の部分でもありますから、表に出てこないマル秘情報であったりもします。
現在のアシタスタイルアカデミーが、もっと当たり前に身近な教育、習慣、として根付くことを目指していきたいです。

学校教育、また、躾や、生き方に通じること。

着物文化、はだし文化の中では、当たり前に身近にあった、思いやりや、気遣い、人の優しさなどにも、通じることだなあと感じています。

*商品開発(インソール、靴)の経緯

*色々な出会いのこと。

現在取り扱っているインソールも、スニーカーも、自社製品ではありません。

私が開発したのではなく、それぞれに、開発者が別に存在します。

模索する中で、形のないメソッドを具現化してくれるカリスマたちとの出会いで

アシタスタイルメソッドは、リアルに表現できるように形を変えることができました。

出会うべくして出会い、繋がった、とても有難い出会いです。

 

アシタスタイルに感動してくださった方が、「雅恵さんと一緒に靴をつくりたい」と

14枚もの手紙をくださり二年前から構想。

この度、共同プロジェクトでオリジナルブランド「Femmush(フェムーシュ)」を立ち上げました。

今後もこのようなご縁はたくさん出てくると思うのですが、アシタスタイルはあくまでも

良質な情報提供をする教育機関のポジションをキープし続けます。

過去、多くの荷物を一人で背負い、抱え込み、身動きが取れず、誰にも助けてと言えなかった

死にそうになってた私です。

いつでも身軽に居たいのです。

多くの人に、知恵を貸していただき、お力添えをいただきながら、囲い込むのではなく

それぞれが尊重し合える助け合える形で、共に未来を築いていきたいです。

 

5.これからの夢、目標は?

(日本全国に拠点づくり)

目標はもちろん成長と発展です。

しかし、それは、社員を多く採用し、自社を大きくし、自社ビルを建てる、といった

高く上に伸ばしそびえ立っていく成長ではなく

アシタスタイルに出会い、感動してくださった方が、情報と技術を身につけ、それぞれのサイズ感で

各々の場所に拠点を構え、小さい拠点が、たくさん増えていくイメージです。

横につながりを広げていって

11歳で感じた私の「足のことを相談できる専門のところがあればいいのに」を叶えていこうと思っています。

 

これから挑戦したいこと。

・靴にちゃんとお金をかける足元が美しい日本人を増やしていきたい。

そのために、当たり前に良い構造の靴が売られている世界にすること。

そのために、靴を監修する人になりたいです。

・身体のケアを得意とする方たちのネットワークをつくりたい。

・「履き心地のいいハイヒール」を誰もが気軽に試せるFemmushの店舗を構えたい。

・素晴らしい人材は主婦の中にいる。働きたくても、社会の環境において、社会貢献できないでいる女性たちが活躍できる場を生み出す仕組みを作りたい

・老若男女、性別関係なく、人として、個としての魅力を発揮できる労働環境をつくりたい。

・いじめや差別がない、優しい世界をつくりたい。

・着物文化、履きもの文化を再燃させたい。アンティーク着物の世界を手入れがしやすい新素材で復刻させて、色鮮やかな世界を復活させたい。

・美しいものを生み出す力があるアーチスト、芸術家の力になりたい。生活のために才能を埋もれさせたくないのです。

・障害や病気、老齢、地方都市、など、社会的弱者、情報弱者、と呼ばれる人たちの、雇用環境を変えていきたい。

・勝ち負けで優劣が決まっていく社会の仕組みを変えたい。

などなど、やりたいことを挙げればきりがありません。

 

「めびうすのWA」について一言。

世界には、いろいろなコミュニティがありますね。

これまでにも、ご招待されたり、自ら選択して参加してきましたが、めびうすのWAが一番好きです。

優劣をつけず、尊敬しあい、応援し合う、優しい形。

人は本来そうあるべきだと思っていた私のところへ、松延さんが会いに来てくださって、お声掛けくださったこと、心から感謝を申し上げます。

ご縁は、そのままだとご縁のままで、互いにご縁を育まなければ育てることはできません。

めびうすのWAでは、ご縁を育むことが、自然な形で出来上がっていく仕組みになっているのだなぁと、感動をいたしました。

過去記事を拝見しながら、皆様の輝かしい経歴にビビりながらも、私は私でしかなく。

何の特技も取り柄もなかった私が、一つのことを追求し続けたらこんなことができるようになったよと、私の生き方が誰かの勇気になれば幸いです。

起業は起業ではなく、やると決めるだけ。

起業は決して特別なことではなく、継続の延長上であることを、この度のプロフィールを綴りながら、感じました。

貴重な機会を与えていただき、ありがとうございます。

 

 

6.座右の銘(言葉)とその理由
Don’t think! Feel.
ブルース・リーの有名な言葉で、「ごちゃごちゃ考えていないで、感じ取れ!」という意味です。 この言葉に纏わるエピソードを教えて下さい。
幼いころから、雨に降られてずぶぬれになった経験がありません。

ウソのような晴れ女です。

必要な時に必要な人が現れ、いつも助けられました。

いつも「なんとなくそう感じるから」の直感を大切に生きてきました。

頭で考えすぎると、過ちを犯す。
人間は、動物です。

 

本能的で生きる、原点です。

正解はいつも「心地よさ」の中に存在します。